
やまがたあをによし。
日常はつまらない。
非日常は楽しい、と誰が決めたのだろう?
日常は確かにマンネリだ。社会人になってしばらくたつと、起きてから寝るまでの1日のサイクルは、だいたい同じになる。休日は違うように見えるかもしれないが、週単位にすると、だいたい同じ事を繰り返している。
起きて、働いて、帰る。そこに本能に由来する、睡眠・食事などの行動が入る。
ちなみに、週末は「働く」が「遊ぶ」に変わるだけ。
本能は、一番自分が心地よいことをしたがるけど、社会のルールとのせめぎ合いで、やがて双方の落とし所のパターンに毎日は収束していく。この「いつも通り」は、心強く、そしてなかなか手強い。
でも、たくさん情報が入ってくる現代、僕らは「いつも通り」の毎日になんだか罪悪感を覚えてしまうようになる。それにつけ込んで、「毎日を変えよう」みたいな言葉にはめっぽう弱い。自分もご多分にもれず、たまに平凡な毎日に変化をつけてみようとあれこれするが、結局本能に負けて、いつも通りに回帰してしまう。
つい最近それを痛切に感じたことがある。

ここ数年、比較的頻繁に訪れるのが、岐阜県山県市。
朝東京から向かうので、訪れる時間は大体同じである。四季折々、同じ時間帯でもガラリと表情を変える山県が好きなのだが、なんとなく朝の山県を見てみたいという好奇心が湧いた。これぞ日常からの脱却だ。そう考え、スタートを4時にしてみた。
プランを伝えた同行者の「正気か」という顔は、今でも思い出す。
僕は車を運転できないので、早朝に山県に行こうとしたら、運転する人が必要なのだ。もちろん丁寧にお礼は言った。確か言ったと思う。
夜明け前の山県がどんなものか、あわよくば幻想的な写真でも撮れるのではと、安易な期待に胸ふくらませつつ山奥の渓流まで車を走らせてもらう。前日の雨が上がり、天気は良く、周囲には朝もやが立ち込めていた。

そう、大変幻想的な、狙い通りの展開だったが、どうにも居心地がよくない。
違和感の原因はほどなくわかった。意外と人が多いのである。
絶景の河原には犬を散歩している人がいて、朝もやの中にはたくさんの人影があり、川の写真を撮っている。自分もカメラもフル装備のおじさん曰く、このお気に入りのロケーションに朝もやが出るのは天気から予想できたので、仲間と一緒に名古屋から車をとばしてきたらしい。
朝もやの写真を撮るみなさんとしばらく話していて、違和感はますます増していった。
河原で犬を走らせているグループにとっても、川につかりながら朝もやを撮っている人たちにとっても、今日の、いままさにこの場所・この瞬間は慣れ親しんだ「いつも通り」であって、空間の主導権は「いつも通り」の彼らにあるように感じてしまったのである。
結果、朝4時に集合という、同行者に苦痛を与えて、得たことが2つある。
ひとつは、朝の山県の空気はやっぱりとってもおいしかったこと。
そして、もうひとつは、変化をつけようと意気込んだ割に、結局自分は誰かの「いつも通り」に圧倒されてしまったということだ。
日常になるくらいまで通ったら、もっとこの非日常を楽しめるのかもしれない、と呟いた僕を見る運転席の同行者の目は、今までに見たことのない凄みを帯びていた。
これだからやっぱり、非日常って、やめられない。
